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読んで遊んで沈んだ記憶

主に日記です。

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母の曲 (池田大作)


母の曲

 お義母さんが倒れたのは、六十五歳の時であった。クモ膜下出血で、八時間におよぶ手術。命は助かったものの、痴呆の症状が出た。嫁である藤野さんが病院に付き添うが、まだ二歳の娘さんには手がかかるうえ、次の子をみごもっていた。当然、過労には過労が重なる。ついに介護する彼女まで倒れて、点滴を受けながら、それでも付き添いを続けたという。
 まだ結婚して何年にもならない。二十代の若い女性にとって、こうした過酷な現実は、どれほど衝撃であったことだろう。「なぜ私だけが……」と思い、「寝たきりのお義母さんを介護するのが、私の人生なのか」と自問したそうだ。
 だが、さいわいなことに、彼女には信心があった。祈ることができた。仏法を学んで、自らをみつめ、人のためにという心を持っていた。
 しんしんと唱題するうち、三世の生命観から、一つの思いが浮かんだという。
 ----お義母さんとの出会いは、たんに夫の母だからなのか。私が嫁だから、たまたま看ているのか。そうではないはずだ。お義母さんは過去世において、私を助けてくれた恩人だったのではないか。次の世では私が恩返しします。と誓って生まれてきたのではないか……。
 そう思いいたった時、藤野さんの覚悟は決まった。すると、なんと、お義母さんの痴呆の症状がほとんどなくなったのである。「あなたに二十八円、貸したわね」と、かつて端数のお金を立て替えたことを思い出した。「うれしい二十八円でした」と藤野さんは言う。

(引用 本書 P73-75)


21世紀を母子の幸福の世紀に、女性の輝く世紀に。
肝要なのは心の持ちようであり、楽観主義であれば、苦ではなくなる。自分が強くなる。自分が成長して、人に影響を与えていく。それが「創価」、すなわち「価値創造」の生き方である。創価学会

宗教というのは、道徳教育の強化を訴える保守派の理想の極致みたいなところがあって、僕もそうだから、こういうのはやっぱり怖いし、怖がらなくちゃいけないと思ってる。
教育は教育として堅苦しいものが必要ではあると考えるけど、道徳や教義に支配される人、それが幸福であるか不幸であるかといった個々人にスポットライトを当てた時の価値観のありようはともかく、そういう人がいるということは保守派だからこそ少し大袈裟に捉えてもよいテーマだ。

本書を読んで、著者である池田大作さんという方が魅力的だというのは伝わってきた。
本書も重要な広宣流布とやらの目的のための手段でもあるのだろうが、どんなに謙虚に振舞ってみせても名誉会長としての著者自身と創価学会という宗教団体とその教義に対する称揚と全能感を押し通す気味の悪さがある。
しかし、創価学会で幸せな人になった人を紹介しながらも、その裏にいるそうではない人、「魔」に負けたというのか、具体例は出されていないし、同じ信仰の同志に宗教者として穏やかさと優しさを以って心の安定を齎してるような、字面だけ追えば良いことしか書いてないのだが、その裏であり行間に確かな厳しさを仄めかし、わざと読み取れるようにしている。
それがどういう思いであるのかはわからないが、人間臭さと泥臭さは感じた。
完全無欠、ボロを出さないようにするのではなく、わざと悪意を持って読み取れるようにする「隙」が演出されている。
果たして、学会員の方はどういう思いで読んだのだろうか。と、そこまで思いを馳せることができる楽しさがある。

本書でいう「女性」とは「母」であり、「母」であるとは家庭の要であり、子どもの第一の教育者であり、また、地域の要として広宣流布の重要な戦闘員である。ちょっとしたフェミニストばりに男社会というものを批判しておきながら、女性を家庭の枠組みにきっちり嵌めようとする。
勿論、そこも読みようによってどうとでも解釈できる。でも、結局は組織主義になっちゃうんだっていうズッコケ感、ツッコミどころ、そのあたりの苦しさに男臭さがあってなかなか面白かった。

鬱の力 (五木寛之 香山リカ)

鬱の力 (幻冬舎新書)鬱の力 (幻冬舎新書)

五木 いまの世の中で気持ちよく明朗に、なんの疑いもなく暮らしてるような人というのは、僕はむしろ病気じゃないかと思うんです(笑)。毎日これだけ胸を痛めるようなニュースがあって、気分が優れないのは当たり前でしょう。心がきれいな人、優しい傷つきやすい繊細な感覚の持ち主ほど、いまはつらい時代です。
 そういう時代に「あーあ」と思わず溜息をつくのは、その人がまだ人間らしさを残してる証拠です。いまの時代は「ちょっと鬱」というぐらいが、いちばん正しい生き方じゃないでしょうか。それまでもひっくるめて病気にしてしまってはまずいと思うんですよ。

香山 ちょっとでも非能率的なものは切り捨てるという風潮のなかで、もしかしたら一種の自浄作用として、社会の中から鬱というものが出てくるのかもしれない。でもそうなると、単純に鬱を全部解決すればいい、ということではなくなってきますね。

(引用 本書P20-21)


五木寛之と香山リカが鬱について対談した本。
鬱的な気分とうつ病をわけ、鬱な気分というものをテーマにした社会論評的な話で構成されている。

戦後日本はずっと右肩上がりで前だけ見て上を目指してエネルギッシュに走り続けた躁状態だったが、今は社会が成熟し、年を取りすぎた、登山に例えれば下山にあたる憂いのある鬱の時代であって、人々の気分が鬱の方向に転じていくのは自然であり、躁の時代のように無理に前を向かせて明るく振舞わせおうとする方が不自然なのだ。
そして、下山まで含んで登山であるように、下山だから発見できることがあり、醍醐味があり、鬱というのはとても大きくてユニークな魅力と可能性を秘めているのに、そんな魅力を今の社会は切断し、包摂を拒んでいるのはおかしい、としている。

本書に説得力を感じるかどうかは人によるのだろうが、鬱的な気分であり、うつ病に悩まされている人、躁でハードワークな社会に固執しなければならないから、ついていけない自分を間違った存在だとして追い込み続けてしまう痛々しい悩みを抱える人々に対する婉曲的な励ましと優しさは感じられた。

自分が悪いのではなくて、社会が悪いんだ。こういう考えは昔も自己責任が叫ばれる昨今でも槍玉にあげられやすいが、そういう考えが出来ることも大切だと本書は訴えている。間違っているのはあなたではなくて社会の方だよ。そんな、自己実現とかとは違う方向の、温もりのある緩い内容になっている。

創価学会 (島田裕巳)

創価学会 (新潮新書)創価学会 (新潮新書)

 創価学会の会員たちが、選挙をはじめとして政治活動に熱心だったのは、その出自が影響を与えていた。第一章で見たように、創価学会の会員となった人間たちは、高度経済成長の波に乗って地方の農村部から大都市部へ出てきたばかりで、都市のなかでは、まだ確固とした生活基盤を築くことのできていない庶民だった。彼らは、未組織の労働者であり、社会党や共産党系の労働組合運動の支持者になる可能性のある人間たちであった。
 ところが、日本の労働組合は企業別組合を特徴としており、労働運動の恩恵にあずかることができるのは、大企業に就職していた労働者たちだけだった。したがって、大企業の組合に所属していない未組織の労働者は、組合運動にすら吸収されなかった。
 その間隙をついたのが創価学会であった。創価学会は、都市部に出てきたものの、労働運動には吸収されなかった人間を入信させるのに成功した。彼らは、労働運動のさらに下に位置づけられ、社会的には徹底して差別されていた。
 社会的に差別されている人間は、現行の社会秩序が崩れ、自分たちが政治的な権力を掌握することを望む。だからこそ、王仏冥合論、国立戒壇の建立という戸田城聖のアイディアは学会員たちの熱烈な支持を得ることに成功した。その意味で、政界進出を果たしてからの創価学会の運動は、たんに宗教の世界の枠にとどまらず、むしろ階級闘争としての性格をもつことになった。

(引用 本書P88-89)


 創価学会に入会すれば、そこには強固な人間関係のネットワークができ上がっている。そのネットワークは日常生活全般に及んでいく。一般の社会に属する人々との付き合いは減り、創価学会員同士の付き合いの方が、より頻繁で深いものになっていく。
 学会員は、地域に生活の場をおいた庶民たちであり、その職種も各種の店主や店員、町工場の工場主や工員、個人タクシーの運転手、保母などに及んでいる。そうした人間たちが集まれば、どんなことでもこなすことができ、何か問題に直面したときは、他の会員たちが相談に乗ってくれるのはもちろん、手術を受けるなどというときには、皆で集まって「南無妙法蓮華経」の題目を上げてくれたりする。引っ越しや葬儀の手伝いもしてくれるし、福祉施設への斡旋が必要となれば、公明党の議員に紹介を依頼してくれたりする。
 また、庶民的な人情家が多く、人間関係の持ち方も決して都会的ではなく、村的な暖かさをもっている。その点で、創価学会の組織は相互扶助の役割を果たす一つの村なのである。

(引用 本書P151)


 創価学会の選挙活動の核になっているのが、「F取り」と「Kづくり」である。
 Fとは、フレンドのことで、F取りとは、学会員が知り合いに公明党議員への投票を依頼し、実際に投票してもらうことを言う。F取りのためには、知り合いに電話を掛けたりすることになるが、その際には、学会員であるということを明かさなければならず、勇気を必要とする。実際、正体を明かしたために、友人と絶縁状態になってしまうこともあるという。
 F取りが外部に対する働きかけであるとすれば、Kづくりは、組織の内部に対する働きかけを意味している。Kとは活動家の略で、学会活動に熱心ではなく、ほとんど休眠状態にある会員を掘り起こし、彼らに公明党議員に投票させることが、Kづくりである。これには、組織を再活性化させるというもう一つの機能がある。

(引用 本書P158)


 財務は年一回行われるが、その一月ほど前には決起大会が開かれ、「百万円出したら息子がいい企業に就職できた」「保険を解約して学会のために捧げたら幸せになりました」といった発言が相次ぎ、他の会員にプレッシャーを与えるという。こうして集められた資金は、巨額にのぼる。大石寺正本堂建立の際には、すでに述べたように三百五十億円集めたが、七四年からの数年間では一千四百億円を集めたという(『創価学会解剖』『創価学会財務部の内幕』を参照)。

(引用 本書P162)


 創価学会が巨大な相互扶助組織であるという点は、組織の維持ということに大きく貢献している。というのも、一度巨大な相互扶助組織のなかに属した人間は、その世界から抜け出すことが難しくなってくるからである。
 創価学会の家庭に生まれた人間がいるとする。その人間の家族は、両親や祖父母をはじめ、親戚の大半は創価学会員で、日頃の付き合いのある人間もほとんどが学会員である。そうした環境に生まれた人間は、子ども時代から学会員とばかり付き合うようになり、自然と学会員の家庭の子どもと友達になっていく。
 その人間が成長し、結婚をしようと考えたとき、果たしてどうなるだろうか。結婚相手として、学会員以外の人間を考えることは相当に難しいであろう。学会員でない相手を折伏し、学会に入ってもらってから結婚するという手立てもあるだろう。しかし、相手が折伏に応じてくれなければ、やはり結婚は難しい。
 もしその人間が、信仰に対して疑問をもったとしたらどうなるのだろうか。子ども時代には、親から言われたとおりに信仰活動を実戦していても、思春期になって、それに疑問を感じることは少なくない。自らの信仰が、自分で選びとったものではなく、親から強制されたものと感じるようになれば、強い反発心が頭をもたげてくることになる。
 そのとき、その人間は重大な岐路に立たされることになる。もし信仰を捨て、学会を抜けるということになれば、それは同時に、家族や知人、友人からなる相互扶助組織を捨てるということを意味するからである。つまり、それまでの人間関係のすべてを捨てなければならない危険性があるわけである。
 果たして、そうしたリスクを冒してまで、脱会へと踏み切れるものなのだろうか。多くの人間は、そこで信仰を捨てるのではなく、あくまで信仰を保ち続ける道を選ぶことになるのではないだろうか。
 現在、折伏によって、新たに創価学会の会員になる人間はそれほど多くはない。しかし、会員の子どもたち、あるいは孫たちは、信仰二世、あるいは三世として、学会のなかに留まる場合が少なくない。それによって、巨大な相互扶助組織は維持され、その力は保たれているのである。

(引用 本書P163-165)


 創価学会が実現しようとしたことは、ある意味で、日本の戦後社会が実現しようとしたことでもあった。敗戦によって打ちのめされた日本国民は、豊かな生活の実現を求めて企業や労働組合といった組織を作り上げ、組織に忠誠を尽くしながら勤勉に働き続けた。その姿は、創価学会の会員たちの姿と重なる。一般の国民は、創価学会の思想や組織のあり方には賛同できなくても、追従する価値については、創価学会員と共通したものをもているのである。
 あるいは、一般の人たちが、創価学会のことを毛嫌いするのは、創価学会が日本の戦後社会の戯画だからではないだろうか。自分たちとまったく無縁なものであるとするなら、毛嫌いする必要もない。ただ無視していればいいはずだ。しかし、創価学会の悪口を言う人は少なくないし、創価学会や池田大作のスキャンダルに対して、決して無関心ではないのである。
 池田大作に対する創価学会員の熱狂にしても、戦前の日本社会に存在した天皇崇拝と重なる部分がある。池田の師であった戸田城聖は、はっきりとその点を意識していて、だからこそ天皇の閲兵式を真似たのだ。
 その意味で、創価学会という組織は、日本人の誰にとっても決して遠い組織ではない。むしろ、私たちの欲望を肥大化させたものが創価学会であるともいえるのである。

(引用 本書P185-186)


駅前を歩いていると人の良さそうな人が近づいてきて、何かと思えば「統一教会ですが、アンケートに協力していただけないでしょうか?」。地味で内気そうな女性による新興宗教のビラ配りや勧誘、手相を見せてください、バスケットはお好きですか? 選挙が近づくと普段大した付き合いのない物腰が柔らかいおばちゃんが家にやってきて、公明党への投票をお願いされる。そんな経験をしたことがないだろうか?

自分は信仰を持っていない。いや、持っていないと思い込んでいるだけで、もしかしたら持っているのかもしれない。ただ、少なくとも自身が信仰のために人生を費やすことにはあまり意義を感じていないし、耐えられないだろうと思っている。

自分が幼い頃、家に宗教の勧誘がよく来た。来た理由はよくわからないが、たぶん母子家庭だったからじゃないかと思う。記憶に残っているぐらいしつこかったのがエホバの証人と創価学会だった。エホバの証人は来るたびによくわからないリーフレットや本を置いていったし、創価学会の人にはお金は払わなくていいから聖教新聞を取ってくれと頼まれて実際に聖教新聞を取っていたことがあった。

聖教新聞ははっきりいってつまらなかった。興味があるのはテレビ欄とスポーツ欄だけだったから、自分にとっては一般紙も等しくつまらないにはつまらなかったのだが、子どもであっても、明らかに普通じゃない新聞だというのが分かった。信者と創価学会に興味ある人間以外にはまったく意味不明な一面。幼い自分にもこれがまともじゃないことがわかったのは、意味不明だからというのもあるが、特定の組織・個人を徹底して賛美し、その組織に都合の悪いものに対しては極めて攻撃的に批判していることはさすがにわかったからだ。大好きだった学習漫画の偉人を紹介する世界の伝記シリーズですら、そこまで極端じゃないというそのバランス感覚を欠いた記事に自分はどうしても馴染めなかった。

結局、我が家(母)は創価学会に入らなかった。入らなかった具体的な理由はよくわからなかったが、少なくとも田舎の土着の泥人間が幅を利かせるうちの地域では創価学会があまりよく思われていないんだろうなというのは感じた。だが、うちの母は創価学会の人とも普通に付き合っていたし、仲良くもしていたようだ。家でも母から創価学会の悪口を聞いたことがない。後になって、古い田舎だけでなく、団地の人間も含めた世間というやつが創価学会のことをあまりよく思っていなかったようだというのがわかった。

今、インターネットがこれだけ普及し、誰もが手軽に意見を発信できるようになったわけだが、そのネットでは創価学会への批判と悪口で溢れ返っているのが現状だ。大体ネットで大勢を占める批判というのは本質を突いたものであってもそれは建前にされて、感情を優先させたバッシングの材料にされているだけとはいえ、ネットで真実じゃないが、やっぱり創価のことをみんな気味悪く思ってたんだなと共感する人は多いことだろう。自分もその気持ちがわかってしまうところがある。

浦沢直樹の『20世紀少年』はカルトとの対決がサスペンスフルに描かれた漫画で、作中に登場するカルト宗教団体”ともだち”は創価学会をモチーフにしているともいわれている。この漫画では”ともだち”という組織や指導者(独裁者)に対しては悪く描かれているのだが、洗脳された一般信者についてはそれほどまでに悪くは描かれていない。あくまで、組織と独裁者に対してターゲットを絞っている。正確にはそんなことはない。そもそも”ともだち”の正体は自分の記憶の中ではあやふやな存在なのに向こうはこちらのことを良く知っていて執着している。そして、身近に何食わぬ顔で潜んでいるそんなカルト信者の恐怖というメッセージも含まれていたからだ。だが、宗教にすがりつくしかない人、宗教に心の拠り所を見つける人、そんな平凡な「人」そのものに対してまでは少なくとも否定的ではなかった。

信仰に無自覚なステレオタイプのような日本人像に当てはまりそうなほとんどの人にとって創価学会ほど身近な存在で、創価学会ほど宗教を意識させる宗教というのはないのではないだろうか。強引な勧誘や選挙活動は創価に迷惑したことのある人間なら確実に共通の話題である。二世・三世で生まれた時から創価に入れられていた人の悩みもネットでよく見るし、恋人・配偶者が創価学会であることの悩みも多いようだ。

本書はそんな風に我々を悩ませてくれる創価学会という組織について客観的に書かれた本で、創価学会の歴史と信仰と組織と学会員の特徴などがわかりやすく説明されている。

学会員同士が作り上げる相互扶助組織が「村」的で、同じ宗教を背景にしたもの同士だからこその助け合いの精神があるノスタルジックで温かい居心地のよい空間だというのは分かった。宗教関係の集まりの良いところというのは道徳が通用し、正義が存在するところだろう。真面目が馬鹿にされない、されにくいというのは高級住宅地に住むことが出来ない、子どもを私立学校・進学校に入れることができない庶民にとって、真面目で自分を追い込むタイプほど理想的に映るかもしれない。

で、あるからこそ悲しくも思う。それは敬虔な信者の持つ多くのものを費やさなければ維持できないのだろうか、と。創価学会も真面目な人が多いのだろう。本書によれば今は二世三世がほとんどだというから、親のために創価学会を信じてきた家族思いな人も多いのだろう。「福子」と称されたその子は成長する毎に、周囲から白い目で見られていることを意識してきただろう。駅前で宗教活動している地味な女性を我々がそういう目で見てきたように、彼らはそういう目で見られてきた。ただ、外では肯定されなくても、内では肯定されてきた。

自由で個人主義で、かなり多くの様々なものが肯定されているはずなのに、厳しい経済状態で脆弱なセーフティネットからあぶれ、自分は肯定されていないと疎外感を抱く人が多いといわれている現在、創価学会・宗教に限らず、ファナティックな現象はあちらこちらに散らばっており、何かにすがるということを否定してしまうことは人間を否定してしまうことなのかなあとも思うわけで、僕が言えるのは、真面目で繊細なあなたのことが好きです、というすごく白々しいことぐらい。

個人の宗教にケチつけてもどうにもならないんなら、うまく騙しちゃった宗教団体にはせめて責任とってその人のことを本当に大切に扱ってあげてほしいと願うばかり。

それでも言おう。やっぱり言おう。ああいうタイプの宗教って精神的にまいってる人とか、不幸な目にあった人とか、自信のなさにつけこんでいるわけだ。そして、ただでさえ自信のない人の自尊心を更に砕いて低くしていく作業だから、自分では輝いてると思っても傍から見ればボロボロになってるというようなケースが少なくないでしょ。幸せになるために入った宗教で、自分を大切にできなくなる、自分で物を考えて自分の価値観で判断できなくなるって、本末転倒だよ。

なんと言われようとオレ流さ (落合博満)


なんと言われようとオレ流さ

 やれ研修会だ、実習訓練だと、今はサラリーマン世界も手取り足取りらしいが、野球界もご多分にもれず、みんな自分の野球をやっていない。
 たとえ、俗に言う管理野球の中にあっても、自分の個性を売ることはできるのに、誰もそれをしようとしていない。
 というのは、リトルリーグからはじまり、甲子園、大学野球と、いわゆる名門コースを歩んでプロ入りするのが常識になって、「管理されるほうがいいんだ!」と、みんなが頭から信じ込んでいる。最初からプロ意識を持とうなどという気はないようだ。
 オレの場合、野球人生そのものが遅くはじまった。しかも、食っていくためにはじめたから、あえて”我”を通し続けている。そういう意味では、今の野球界でいちばんオレが自分を大事にしてるんじゃないだろうか。

(引用 本書P13-14)


自分にとって史上最高の四番打者といえば今でも落合博満である。もしかしたら死ぬまで落合博満かもしれない。
現役時代は史上初めての3度の三冠王に輝く落合だが、本書は2度目の三冠王に輝いた昭和60年のシーズンの後に出版された本で、落合博満の全盛期といっていいかもしれない現役時に綴られた貴重なものになっている。

プロ野球は団体の職業ではなく個人の職業であることを押し出すべきと主張する著者の高いプロ意識による考えは非常にユニークで、またユニークであるからこそプロなのであり、そういう意味で子供と学生以外はプロであるべきだと書かれている。
野球といえば体育会系の軍隊式というイメージで企業もその組織主義的な管理野球論を取り入れているところがあるようだが、著者自身はそういうのが嫌いで我を通し続けてきたと野球部退部や何もせずフラフラしてプロボウラーを目指そうと思った時期など野球選手としては異色な経歴のエピソードが面白い。
著者のユニークな理論と実践の説明に説得力を与えているのはプロ野球の世界で叩き出した優れた結果によってであるが、なるほどやはり天才は違うもんだなと思わせるだけの興味深い経歴が落合博満という世紀の大打者の魅力であり、本書の内容を肉付けしている。

バッテイング技術についてなどの野球理論や、また、著者が独身の頃のプライベートはだらしがないというか奔放で、妻の信子さんがいなければ家では何もできないという告白も面白い。落合信子というと豪快なカカアというイメージだが、実際はかなり古風な女性のようで、著者は常に味方としてサポートしてくれる妻信子さんへの愛情と感謝の念が溢れんばかりにこめられているのも微笑ましくて面白かった。

野球で失敗してもどうにか食うだけは食っていけるさ、という縛られない前向きな考えが眩しい成功者の本だが、その眩しさが読むものに元気を与えてくれる。落合博満というプロの魅力が詰められた一冊になっている。

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