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読んで遊んで沈んだ記憶

主に日記です。

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国家の品格 (藤原正彦)

国家の品格 (新潮新書)国家の品格 (新潮新書)

 経済改革の柱となった市場原理主義をはじめ、留まるところを知らないアメリカ化は、経済を遥かに超えて、社会、文化、国民性にまで深い影響を与えてしまったのです。金銭至上主義に取り憑かれた日本人は、マネーゲームとしての、財力にまかせた法律違反すれすれのメディア買収を、卑怯とも下品とも思わなくなってしまったのです。
 戦後、祖国への誇りや自信を失うように教育され、すっかり足腰の弱っていた日本人は、世界に誇るべき我が国古来の「情緒と形」をあっさり忘れ、市場経済に代表される、欧米の「論理と合理」に身を売ってしまったのです。

(引用 本書P5-6)


「論理」を信用しすぎて、それに支配されると、日本が世界に誇るべき「情緒」が失われてしまうことになるので、日本人はアメリカやアメリカかぶれのいうことよりも、祖先や伝統文化を大事にしようということが主張されている。
具体的には、戦後教育や市場原理主義などを仮想敵に設定していて、進むグローバル化と新自由主義的価値観の浸透に抵抗を試みた一冊になっている。
欧米の論理に相対する大和魂もまた著者によって論理で立ち向かわされている点と、仮想敵の悪い部分をあげつらうだけの先にある「武士道と情緒」に説得力があるのかというところで、危なっかしさはあるものの、漠然とした不安が蔓延する閉塞した社会に生きる日本人に対して、この国で育まれた「ならぬことはならぬ」の問答無用の美しい道徳を学んだ誇り高き日本人のあなたは論理的に説明できなくても正しいので誇りと自信を持ちなさいと、全力で「日本人」を肯定し、称揚した、痛快な一冊でもあった。
著者流の祖国愛の発露であり、思いやり、惻隠の情でもあるのだろう。

愛国者は信用できるか (鈴木邦男)

愛国者は信用できるか (講談社現代新書)愛国者は信用できるか (講談社現代新書)

「言挙げしない」。それが日本人のよさであり美徳だった。それに「優しさ」「謙虚」「寛容」だ。これが日本精神であり、国を愛する心だった。ところがこの美徳を忘れ、傲慢で偏狭、押し付けがましい「愛国者」が急に増えた。「自分こそ愛国者だ」「いや俺の方こそ愛国者だ」と絶叫し、少しでも考え方が違うと「反日だ!」「非国民だ!」と決めつけ排除する。
 しかしこうした者たちこそが日本の美徳を踏みにじり、最も「反日的」ではないのか。
 そんな疑問、思いからこの本を書き始めた。「愛国者」の勘違いを教えてやろう。にわか愛国者、アマチュア愛国者、オタク愛国者に、本当の愛国心を教えてやろう。そう思ってこの本を引き受けた。「そうですよ。愛国運動四十年。愛国心なら何でも分かるでしょう」と名編集者の岡部ひとみさんに煽られた。「この本を欠けるのは鈴木さんしかいませんよ」と言われた。「そんなことありませんよ」と謙遜しながらも心中、「そうだろう」と思った。よし、「プロの愛国者」、「日本一の愛国者」の真髄、本領を見せつけてやろうと思った。
 ところが書き始めて後悔した。愛国心は諸刃の剣だ。これからが本当の愛国心だと言挙げしているうちに、その刃は自分にも向かってくる。「お前だって偽物だ」「形や量だけにこだわった薄っぺらな愛国心ではないのか」と問いつめてくる。愛国心を最も誤解していたのは自分かもしれない。愕然とした。それだけ「愛国心」は難しい。「愛国者」になることも難しい。そのことだけでも分かってもらえればいいか。

(引用 本書P193-194)


誰よりも愛国心があると自負する新右翼の大物とやらが問う「愛国心」。
右翼活動をずっとやってきた経験から先輩であり年寄りという立場で、保守化しているといわれている「若者」に対して、ニワカとかアマチュアとかオタクとか言いたいことを言っているわけだが、著者も若い頃は自身が揶揄するような右翼だったと宣言しており、その頃への自省からネットに蔓延る攻撃的排外的保守や愛国心を強制しようと考える人達に対して警鐘を鳴らしている。

著者の懸念はよくわかるのだが、如何せん著者のいう寛容さというのが選別された相手にしか適用されていないので、ネット保守などに対する分析と推察がほとんどないままに侮蔑したレッテルが適当に貼られているのと、「愛国心」というマジックワードを巧みに利用し、日本の本来である昔は寛容で謙虛だったなどと昔を美化して現在を卑下し、素朴な感情に訴えるやり方がどうしても気になる。

しかし、著者はこれらをあえて自覚的にやっている。言葉遊び的で、「愛国者の品格」といった題の方がふさわしいのではないかという内容になったのは、それに対する批判の作業をする過程で自身のことを見なおしてもらいたいという思いが込められていることが読み手に伝わってくる。

ただ、たとえそれがどんなに寛容で正しいとされる形をとられていても、愛国心に本物か偽物かを峻別して自分が本物であるという立場から必然的に相手を紛い物としてしまう批判のほうが偏狭なナショナリズムとやらよりもよほど攻撃的で排他的になっているケースがある。
ネット上に散見する本物のリベラル、本物のフェミニズム、本物のオタクとはなんぞやといった議論にも通ずる違和感ではあるのだが、著者はこの言葉遊びについてはもう少し考えた方が良いとは思った。
日本は美しい、言霊の国なのだから。

ジェンダーで読む福祉社会 (杉本貴代栄)

ジェンダーで読む福祉社会 (有斐閣選書)ジェンダーで読む福祉社会 (有斐閣選書)

 しかし、このような報告が「事実」であったとしても、女子高校生全体の四〇%が売春をしているわけではない。その理由は、たとえ女子高生の売春に対する罪悪感が薄れつつあるとはいっても、売春が「してはいけないこと」であり、少なくとも「やりたくないこと」であることは、女性という「性」を持つ限り自明のことだからである。当の女子高校生がどう自分に言いつくろおうとも、自分の身体を売ってお金を得ることが、快適な経験のはずがない。つまり売春とは、女性にとっては体と心とお金を危険に秤にかければ、いつも変わらず「割に合わないこと」だからである。
 それでも女子高校生による売春は、増えていると推測される。その背景には、「やりたくないこと」だけれど、自分の身体がお金になることを知った少女たち、「今」なら高く売れることを知った少女たちと、それを「援助交際」という曖昧な名で買春する男たちがいるからである。「自主的な」「気軽な」ノリの「援助交際」とは、何のことはない、その昔から変わらない売買春の構図と同じなのである。たとえ選択権が女子高校生の側にあるとはいっても、旧態依然の売買春の構図を「自主的」とはいえない。

(引用 本書P242-243)


1999年に出版された本。
ジェンダー偏在を修正することが社会福祉にとって必要な課題であるという認識が広がっているとした上で、社会福祉とジェンダーを相互関連づけてジェンダー視点から福祉社会を読み解くことに挑んでいる。

第1章 社会福祉政策と制度
第2章 家族・労働
第3章 児童福祉
第4章 母子・父子世帯
第5章 高齢者福祉
第6章 障害者(児)福祉
第7章 社会福祉のヒューマン・パワー
第8章 セクシュアリティ・人権

8章立てで構成されており、どの章も共通しているのはジェンダーバイアスへの批判である。
全体的には弱者の側に立つというスタンスで女性の味方をしている。映画やマンガの作品とその背景を例に挙げて親しみやすさを意識しながら、福祉社会の課題とそれを阻む問題点について理路整然と説明されている。
著者によれば、社会福祉に関する問題は女性の問題として出現する。それは、女性が介護・家事的仕事をこなす性別役割分業意識が社会全体に根強く、そのことが女性を低賃金に貶め、女性が大半を占める福祉労働者等の待遇の劣悪さや社会の様々な問題に繋がっているという。
売買春問題のように数字などの客観的データから一方的に社会であり男性への批判を導きにくい問題についてはフェミニストらしいバイアスのかかり具合が引っかかるところもあるが、それすら臆さない堂々とした文章だった。

個人的に気になったのは高齢者福祉の章で、自分自身、女性(嫁)が配偶者の親を介護するという光景が好きではないというか嫌いといっていいほどなのだが、高齢者の意識によると男性は家庭での介護を望む傾向にあり、女性は家庭で被介護者になることに消極的で外部サービスへの利用を希望する傾向があるというデータは興味深かった。
嫁姑問題のように、姑という存在は嫁を好きなだけいびりながら、老いたら嫁に介護してもらう、そんな腹づもりというイメージがあったのだが、女性のほうが家庭で介護してもらうことに消極的であるというのは、女性の方が男性より平均寿命が長く、配偶者より年下であることが多いので、配偶者(夫)からの介護を期待できないのと、介護が重労働で苦痛であり、よほど苦労したか、もしくは同性の苦労を見てきた経験があってのことだろうか。
あるいはフェミニズムの影響に高齢者であっても女性の方が敏感であるということなのかもしれない。
しかし、外部の福祉サービスを利用するとしても、そこには低賃金で働く女性たちの苦労によって支えられている実態があり、本書が指摘する流れから云えば、それは男性社会であり家父長制を支えるために組み込まれた都合の良いシステムであるともいえ、考えさせられた。

さよなら原辰徳 栄光と悲劇の四番打者 (荘田健一)


さよなら原辰徳―栄光と悲劇の四番打者

 数字的に見れば原の四番打者としての成績は立派な合格点となる。
 だが、あくまでさわやかで、いつも優しかったイメージが、どうしても非難の対象になってしまっていたのである。
 原はこんなことを言っていたことがある。
「今の時代、僕みたいなタイプはファンには受け入れにくいのかも知れないね。江川さんとか落合さんとか、ああいうアウトローのタイプの方がファンは支持するのでしょう。でも、これは僕が持って生まれた性格だから、どうしようもないんです」
 原は自分の置かれている状況をちゃんと自覚していたのである。
 それでも闘志を内に秘め、あくまでもスマートに、紳士の誇りを持ってプレーする姿勢を貫き通した。
 その姿勢がどれだけ素晴しいことか、ファンは原が身も心もボロボロになって引退していく時にハッと思い出したように気付いたのだった。
 思えば長嶋監督解任以来、ずっと暗い話題が多かった巨人の中で、唯一、昔ながらの巨人の「正しい」イメージを守り通したのは原だけだった。
 ファンを大切にし、言動に気をつけ、華麗なプレーを見せ、スマートに選手生活を送る。
 もう誰もできなくなってしまったこのスーパースターのイメージを原は守り通した。

(引用 本書P2-3)


僕がプロ野球を見始めた時、家は地上波しか映らなかったので、巨人戦しか観られず、プロ野球を熱く楽しむためには、巨人ファンかアンチ巨人になるのが必要だった。僕はアンチ巨人になった。それは長嶋茂雄監督によるFA宣言した他球団の主力選手を無節操に(見える形で)獲得する姿勢が嫌だったし、どんなに負けても巨人は常に地上波で試合が全国中継されている人気球団なのだから巨人と対戦する他の球団に勝ってもらった方が全体としては面白くなるんじゃないかと思っていたからだった。

そんな頃のそんな思いだったが、原に対しては悪いイメージはなかった。見た目が爽やかだったし、僕が野球に興味を持った時、選手としてはもう落ちぶれていたところで、それでも這い上がろうとしているという印象付けに好感を抱いていた。巨人という嫌いな球団であっても、かつてのヒーローが終わりを迎えつつあるとき、それが他の球団の選手とはまた違う特殊な感情として同情してしまうのは、僕がプロ野球を浪花節の高校野球と同じ感覚で観ているからというのと、やはりあの頃のアンチ巨人は、結局のところ、巨人ファンだったからなのだと思う。

本書は原辰徳を主人公に、全編通して徹底して彼を美化、擁護する格好で書かれている。選手時代の成績と監督時代の成績を見れば、原が野球人としては優れた存在だというのはわかる。

原が人間的にどうかというのは僕にはわからない。不倫や暴力団絡みのスキャンダルが引っかかるというのもあるが、あまりにイメージを作ることにこだわり過ぎているようでピンとこない。アイドルを見ているかのような違和感と心地よさはあるが、それが巨人のスーパースターというやつなのだろうか。巨人に対するこだわりを愛であると原も著者も表現しているが、それはスターであること、アイドルであることへのこだわりなのかもしれない。そして、その固く作られたイメージを誰よりも浪花節の高校野球ファンである僕が求めているのだろう。それがまた巨人に対する愛憎の念に繋がっていて、僕をアンチ巨人に駆り立ててしまう。愛され、憎まれるには、原のような存在は「巨人」という球団には常に必要なのかもしれない。

種まく子供たち 小児ガンを体験した七人の物語 (佐藤律子)

種まく子供たち―小児ガンを体験した七人の物語種まく子供たち―小児ガンを体験した七人の物語

僕がいる病院の院長に「あなたのようなガン(骨膜肉腫)患者は、日本に十人もいませんよ」とはっきりいわれたとき、ショックはなかったです。逆に、僕は「じゃあ、僕が治ったら第一号ですね」といったのです。それからですね。精神的に浮いていた自分が、今のように地面を見つけ、前に歩き出せるようになったのは。今はガンになった自分が好きです。だってガンは僕の家族を強く結びつけたし、自分の性格もかわってきました。内にこもる性格から外に出す性格へとね。もしかしたら僕は暗闇に身をひそめてふるえながら死んでいったかもしれない。でも僕には僕のことを思ってくれる親友がいました。そして好きな子も……。フラれたけどね。そしてなにより両親がいたのです。
   拓也の手紙より

(引用 本書P173-175)


息子を小児ガンで亡くした経験から、小児ガンの子供たちをなにかの形で応援したいという思いでつくられた小児ガンの体験談集。闘病している子供たちは、元気の種や勇気の種、思いやりの種など世の中にたくさんの「種」をまきつづけており、その種がいつか芽ばえ、たくさんの人の心のなかで育つことねがって書名を『種まく子供たち』としたのだとか。

この手の本が意図していることに、厳しい現実に必死に立ち向かっている人たちの姿への感動と、当たり前のように生を戴いている今の自分を考え直す作業への導きがある。これは親の子に対する接し方であり、子の親に対する接し方にも云える。

自分が、もしくは自分の子どもが、小児ガンであることを宣告された時、余命がわずかであることを宣告された時、少しでも運命に抗おうとし、残された時間を精一杯生き抜く姿とそれを支える存在は確かに感動的だった。
高額の医療費という金銭的負担を背負い、子どもにつきっきりで看病できる程度に時間に融通を利かす、これを子どもへの愛とやり遂げてみせた、胸を張れる人達が集められている。
借りぐらしのアリエッティの翔のようなケースがこの七人の物語の裏にどれだけ隠されているか僕は知らないが、本書が伝えているのは子どもたちのひたむきで純粋な姿だけではなくて、それを支え、子どもと一緒に病と闘う親の姿も熱く伝わってきた。

自分も本書に励まされた。だが、一生懸命生きようというよりは、運命は残酷で、人間死ぬときは死ぬのだから、今を気楽に生きてもいいんだ、という風に自分を肯定することができた。そして、自分とは違い、今を一生懸命生き抜こうとしている人、それを支える人については、そういう現実があることを受け止めている彼らの労と温かさに対して、自分の中で感謝をしたい。

日本の10大新宗教 (島田裕巳)

日本の10大新宗教 (幻冬舎新書)日本の10大新宗教 (幻冬舎新書)

 日本の新宗教にイスラム教のような動きが起こるとは思えないものの、時代状況が変化すれば、宗教はたちまちその力を取り戻し、蘇っていく。日本の歴史を振り返ってみても、宗教の衰退と復興がくり返されてきている。社会全体が注目するような新宗教が、いつ登場したとしても不思議ではない。一時中国で爆発的に伸びた法輪功のように、インターネットを媒介にして広がっていくような新宗教もある。
 これからどのような新宗教が生まれ、その勢力を拡大していくのか。それは、日本の社会がどう変化していくかにかかっている。新宗教に集まってくるのは、その時代の大きな流れについていくことができなかったり、社会のあり方に不満をもっている人々である。社会が変われば、不満の中身も変わるし、どういった人間が不満をもつかも変わる。その点で、新宗教は時代を映す鏡としての性格をもっている。その鏡に何が映るのか。私たちは新宗教のこれからを見つめていかなければならないのである。

(引用 本書P212-213)


新宗教をめぐるさまざまな問題を踏まえた上で、主な十の教団を取り上げ、それぞれの教団の成り立ちや歴史、教団としての特徴などを紹介することで、日本の社会における新宗教のあり方を概観していく、という本書。
教団の規模、社会的な影響力、時代性を考慮して選んだ十の教団は、反社会的な性格を示していたり、「カルト」として扱われることが多い教団はリストアップしなかったとのこと。

本書で取り上げられている十の新宗教とは、

・天理教
・大本
・生長の家
・天照皇大神宮教と璽宇
・立正佼成会と霊友会
・創価学会
・世界救世教、神慈秀明会と真光系教団
・PL教団
・真如苑
・GLA(ジー・エル・エー総合本部)

となっており、馴染みのあるものから無いものまで色々で、正直に云って、十大新宗教と云われてもピンとこないところがあるのだが、客観的視点で書かれた各教団の概略はなかなか面白かった。トピック毎、紙幅が限られていることへ物足りなさを感じるほどで、その半端さが結果的には余計に新宗教というものに対して自分を身構えさせた。これは自分の創価学会への印象と似ているなと思った。

ただ、著者によれば、これらの新宗教は時代を映す鏡であり、そこから、社会に振り落とされ、見捨てられた存在と構造の問題が見えるのであり、新宗教の問題は社会の問題として捉え、また、彼ら新宗教の信者(候補)に対する白眼視や否定的な接し方を問い直すべきであるというようなことを仄めかしている。肯定されたい、豊かになりたい、という思いは普遍的な願望なのだから。

それと、「新宗教に集まってくるのは、その時代の大きな流れについていくことができなかったり、社会のあり方に不満をもっている人々である」のならば、現在は新宗教の教団よりもネットの方が新宗教っぽいといえるのかもしれない。

遺書 (松本人志)

遺書遺書

「最近テレビがつまらない」なんてことをよく耳にする。まぁ、オレなんかは作る側の立場なわけで、そういう意見を聞くと、正直、悲しくなってしまう。
 確かに、つまらん番組があまりにも多い。なかにはつまる(おもしろい)番組もあるのだが、つまらん番組が多すぎるために、いっしょくたにされてしまっていることが、モーレツに腹立たしい。
 ちなみに、オレの番組などは、しっかりと見、しっかり聞いてくれれば、それとは違うということがわかっていただけると思うのだが。まぁ、昔のテレビが、いまとくらべてそんなにおもしろかったとも、オレなんかは思わないのだが。
 では、おもしろくないと言われる原因は、いったいどこにあるのだろう。
 理由はたくさんあるだろうが、いちばん大きな理由としては、この不景気であろう。単純に、いいものを作ろうと思えばカネがかかる。そのカネがないのだから困ってしまう。

(引用 本書P123-124)


1994年出版。松本人志が週刊朝日に連載していたコラムが収録されている。

お笑いコンビ「ダウンタウン」として飛ぶ鳥を落とす勢いがあった頃の松本人志30歳の感性が本というメディアに収録されており、その鋭さとユーモア溢れるテンポの良い文章は娯楽として楽しめる内容になっている。まさにあの頃のブラウン管の中の松本人志が語っているような、その程度には「芸」を意識してさらけ出されているのだろうが、お笑いというのは差別的で攻撃的なものだ、という意味も含みながら非常にエネルギッシュに突き抜けられている。
自分中心で蔑視や嫌悪の感情で笑いを取って許されるのがプロであり、つまらないものは絶対に認めないというプロ意識、自分はこの嫌われ者のお笑いの道一本で行くという著者のストイックな姿勢は素晴らしいものがあるのだが、2012年現在のマルチタレント松本人志という存在を考えれば、やはりこの頃の著者は若かった、ということだろう。とはいえ、著者に限らず、若いというのはこういうことなんだなという意味でその尖り具合に共感はあるし、嘆息もした。

ゲゲゲの女房 (武良布枝)

ゲゲゲの女房ゲゲゲの女房

 私は、身長が一六五センチもあって、当時としてはものすごく背が高いほうでした。女学校に入るときには、後ろから四番目ぐらいだったのに、卒業するまでの間にひょろひょろ伸びてしまい、学年でいちばん背が高くなってしまったのです。私が引っ込み思案だったのは、身長が高すぎるというコンプレックスもあったかもしれません。だから、結婚に対しても、私自身、ちょっと臆病な面もありました。
 でも、もうそんなこと、いっていられません。祖母も亡くなり家業に人手が足りるようになった以上、この家を出て行くことを真剣に考えなければならないと思ったのです。それはつまり、どこかの人と結婚して、その家に入るということでした。ひとりで生きていく技術も経験もなく、誰かに頼って生きていくしかない私にとって、家を出る唯一の方法が、結婚でした。
 でも、自分で相手を見つけるなんてことは、とてもできません。チャンスがないというのではなく、そういう発想すら、私の中のどこをさがしてもなかったのです。こういうと、いまの若い人には奇異に聞こえるかもしれませんが、都会ならいざ知らず、当時の地方では、見合い結婚が当たり前で、恋愛結婚などとんでもないという時代でした。ですから私は、誰か、いい縁談を持ってきてくれないかしらと、ひたすら願っているだけでした。そのころ、よくお墓参りに行っては「私が縁付いていくところが、幸せでありますように」と祖母にお願いしていました。

(引用 本書P27-28)


水木しげるの妻、武良布枝による自伝。
2010年にNHKの連続テレビ小説としてドラマ化もされ、その夫唱婦随を地で行く保守的なスタイル、まだ貸本漫画家だった頃の水木しげると結婚し、貧困生活を共にし、夫を支え続けたという良妻賢母ぶりが注目を集めた。

水木しげるは自伝『ねぼけ人生』の中のあとがきで、「自分の貧乏生活をふりかえってみたところで、少しも面白くない」「いや、この貧乏ってのが、今は珍しいんですよ。だって、今、貧乏ってのはあまりありませんからねえ」「貧乏ってのがそんなに珍しいのかなあ」と、編集者とやりとしているが、ゲゲゲの女房における結婚観、男女観といったものもまた同様であろう。

読んで、思ったのは、当時の空気であり、著者のような保守的な考えの女性だと実家から出るには結婚して男性に自分の人生を委ねるしか方法がなかったのだなということ。

一人の男性の双肩に自分の人生がどうなるかのほとんど全てが懸かっているのだから、大変な博打だが、だからこその波瀾万丈のドラマになっている。
本当は貧乏で生活が苦しいのにそれを隠したまま見合いをした水木しげるは相当にひどいと思うのだが、著者が根に持っていないのは、後で水木が成功したからというのではなく、自身の直感と実感による水木への好意と、見合い相手の査定に厳しかった尊敬する父親が認めた男だったこともあるのだろう。

「人生は終わりよければすべてよし」という著者の言葉も、最終的に水木しげるが成功して大金持ちになったからというわけではなく、貧困生活を支えた自身の健気さが際立つことへの照れもあるのだろうし、また、本書の温もりあるサクセスストーリーの裏には著者のような幸福な家庭に恵まれなかった多くの女性達の涙が流れているし、水木しげるのようになれず売れないままペンを折ることになった多くの作家達の血が流れているという残酷な現実があり、水木の横で関わってきた人たちへの幸せを願う優しい眼差しを感じさせた。そういう人柄の良さと厳しい人生を送った経験の凄みを本書からは感じることができた。

そして、結婚して妻でいることってすごい才能と努力がいるものなのだな、と。

ティータイム あたたかい家庭 幸せのアイディア25 (大川隆法)

ティータイム―あたたかい家庭、幸せのアイデア25ティータイム―あたたかい家庭、幸せのアイデア25

子供が親に反抗するほんとうの理由とは?

 家庭内暴力の原因の一つはストレスです。これは間違いありません。
 子供への押しつけが多くなると、これに対して、個性ある者の反乱が起きます。子供が反乱を起こす場合、たいていは、親が子供に対して、「おまえはこうしなければならない」「勉強しなければならない」「この仕事に就かねばならない」というように、特定の価値観を押しつけています。それが家庭内暴力の原因なることが多いのです。
 たとえば、親から、「おまえは、将来、絶対に医者にならなければならない。そのためには勉強ができなければならない。国立の医学部へは並の頭脳では入れないし、私立大学へ行かせるほどのお金はない」と言われて受験勉強をしていた息子が、最後には、気が狂ったように暴れるということも充分にありえます。
 親のほうは、何か失敗体験、挫折体験があって、「自分はうまくいかなかったから、子供だけは、なんとか幸福にしてやりたい」という親心で、子供にいろいろとお仕着せを着せるのですが、子供にとっては、たいへん迷惑な話であることが多いのです。
 親の考え方と子供の考え方は違います。親のほうは「子供の気持ちを全部分かっている」と思うかもしれませんが、子供は、十代の後半ぐらいになると、親とは違うことを考えているので、親には子供の心の内が分からなくなっています。
 子供の価値観は、親にとっては意外なところにある場合があるのです。

(引用 本書P70-72)


宗教法人「幸福の科学」総裁の大川隆法による「ティータイムの一杯の紅茶を飲む間に、あなたの人生を変える」をテーマにした本。
著者によれば、学校生活には教科書があるし、会社の仕事にもマニュアルというものがあるが、家庭生活には誰もが参考にしうるテキストがないとし、家庭生活を幸福にするための教科書や参考書を提供するのが、宗教の一つの使命だと思っている、とのこと。

平易で簡潔なテキストの中に魂や霊などの宗教的な観念がたまに用いられていることがありながらも、基本的には保守的な視線を女性(母と妻)に向けて、家庭というものについて穏やかに綴られている。

個人的には霊言や霊査、宇宙人といったエキセントリックな方面から大胆に語ってもらいたかったところではあるのだが。

ねぼけ人生 (水木しげる)

ねぼけ人生 (ちくま文庫)ねぼけ人生 (ちくま文庫)

 僕は、子供の時、軍人にあこがれていた。それは、勇ましいからだったが、勇ましいというのは、他人がやっているのを鑑賞している時の気分で、自分が参加すると、勇ましいというより怖いものなのだ。自分が、いやでも参加させられる年齢が近づき、しかも、もはや絵描きになるつもりになってしまうと、軍人や戦争や、まして戦死なんかは、うとましいばかりだった。
 ところが、新聞や雑誌では、文化人や有名人といった連中が、若者は国のために戦争で死ぬのが当たり前で、天皇陛下のために死ぬのは名誉なことだ、というようなことを言って、自分に都合のいい万葉集の歌なんかを引用して力んでいた。
 駅頭の人ごみでは、千人針といって、千人の女の人の手によって縫われた腹巻を作り、それでタマヨケになるという不思議な運動をやっていた。そのすぐ後では、歓呼の声に送られて汽車に乗る出征兵士の姿が見られた。
 そうこうしているうちに、僕の好きな菓子が菓子屋から消え、砂糖が配給制になりだした。
 僕は、それまで、胃腸も丈夫なズイボで、寝ることも好きで、動きまわったり絵を描いたりして楽しく生きてきた。だから、ここへ来て、死がせまっていることを考えるのは、非常につらいことだった。

(引用 本書P74-75)


「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげるによる自伝。
著者の見た戦争と戦後を背景に、ガキ大将・落ちこぼれ・戦争・マンガ家、それぞれのステージとシーンで水木しげるはどこでも水木しげるで変わり者だったんだなあというのがよく分かる興味深い内容になっている。面白い存在だからどんな道でも面白い人生として歩むことが出来るのか、人生をユーモラスに彩ることができる才能というものに魅せられる一冊だが、その波瀾万丈の道程は戦争による死への恐怖や貧乏による苦しみなど哀しみにも満ちている。
だからこそ読んでいて面白い、ドラマになるのだ、という面もあるのが皮肉的だが、著者の寝て過ごす方が好きだというその朗らかな幸福観、枠からはみ出る個性と考え方、楽天的な物の捉え方は趣味人的なタイプにとってはとても魅惑的に映るのではないだろうか。読んでいて、死生と自然、祖先、霊、妖怪といったものに対してのロマンを少し共有できたような気になれるのも楽しい。

でも、そんな著者でも貧乏はやっぱり怖いと漫画家として売れ出したら以前の貧困生活に転落しないように我武者羅に働いたということだから、人気商売の辛さ、漫画家の厳しさも窺えるが、当時の日本というものがそういうものだったのかもしれないし、家庭を持つということはそういうことでもあるのだろうが、これが日本の物質的豊かさの原動力でもあるのだろうかなどとも思わせる。

NHKの朝の連続テレビ小説としてドラマ化された「ゲゲゲの女房」で貧困時代を支えた奥さんとの結婚生活にも注目を集めたが、本書ではそちら方面の描写は少ない。奥さんは著者の趣味である軍艦模型作りに参加していたということが書かれている。

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