鬱の力 (幻冬舎新書)五木 いまの世の中で気持ちよく明朗に、なんの疑いもなく暮らしてるような人というのは、僕はむしろ病気じゃないかと思うんです(笑)。毎日これだけ胸を痛めるようなニュースがあって、気分が優れないのは当たり前でしょう。心がきれいな人、優しい傷つきやすい繊細な感覚の持ち主ほど、いまはつらい時代です。
そういう時代に「あーあ」と思わず溜息をつくのは、その人がまだ人間らしさを残してる証拠です。いまの時代は「ちょっと鬱」というぐらいが、いちばん正しい生き方じゃないでしょうか。それまでもひっくるめて病気にしてしまってはまずいと思うんですよ。
香山 ちょっとでも非能率的なものは切り捨てるという風潮のなかで、もしかしたら一種の自浄作用として、社会の中から鬱というものが出てくるのかもしれない。でもそうなると、単純に鬱を全部解決すればいい、ということではなくなってきますね。
(引用 本書P20-21)五木寛之と香山リカが鬱について対談した本。
鬱的な気分とうつ病をわけ、鬱な気分というものをテーマにした社会論評的な話で構成されている。
戦後日本はずっと右肩上がりで前だけ見て上を目指してエネルギッシュに走り続けた躁状態だったが、今は社会が成熟し、年を取りすぎた、登山に例えれば下山にあたる憂いのある鬱の時代であって、人々の気分が鬱の方向に転じていくのは自然であり、躁の時代のように無理に前を向かせて明るく振舞わせおうとする方が不自然なのだ。
そして、下山まで含んで登山であるように、下山だから発見できることがあり、醍醐味があり、鬱というのはとても大きくてユニークな魅力と可能性を秘めているのに、そんな魅力を今の社会は切断し、包摂を拒んでいるのはおかしい、としている。
本書に説得力を感じるかどうかは人によるのだろうが、鬱的な気分であり、うつ病に悩まされている人、躁でハードワークな社会に固執しなければならないから、ついていけない自分を間違った存在だとして追い込み続けてしまう痛々しい悩みを抱える人々に対する婉曲的な励ましと優しさは感じられた。
自分が悪いのではなくて、社会が悪いんだ。こういう考えは昔も自己責任が叫ばれる昨今でも槍玉にあげられやすいが、そういう考えが出来ることも大切だと本書は訴えている。間違っているのはあなたではなくて社会の方だよ。そんな、自己実現とかとは違う方向の、温もりのある緩い内容になっている。