ゲゲゲの女房 私は、身長が一六五センチもあって、当時としてはものすごく背が高いほうでした。女学校に入るときには、後ろから四番目ぐらいだったのに、卒業するまでの間にひょろひょろ伸びてしまい、学年でいちばん背が高くなってしまったのです。私が引っ込み思案だったのは、身長が高すぎるというコンプレックスもあったかもしれません。だから、結婚に対しても、私自身、ちょっと臆病な面もありました。
でも、もうそんなこと、いっていられません。祖母も亡くなり家業に人手が足りるようになった以上、この家を出て行くことを真剣に考えなければならないと思ったのです。それはつまり、どこかの人と結婚して、その家に入るということでした。ひとりで生きていく技術も経験もなく、誰かに頼って生きていくしかない私にとって、家を出る唯一の方法が、結婚でした。
でも、自分で相手を見つけるなんてことは、とてもできません。チャンスがないというのではなく、そういう発想すら、私の中のどこをさがしてもなかったのです。こういうと、いまの若い人には奇異に聞こえるかもしれませんが、都会ならいざ知らず、当時の地方では、見合い結婚が当たり前で、恋愛結婚などとんでもないという時代でした。ですから私は、誰か、いい縁談を持ってきてくれないかしらと、ひたすら願っているだけでした。そのころ、よくお墓参りに行っては「私が縁付いていくところが、幸せでありますように」と祖母にお願いしていました。
(引用 本書P27-28)水木しげるの妻、武良布枝による自伝。
2010年にNHKの連続テレビ小説としてドラマ化もされ、その夫唱婦随を地で行く保守的なスタイル、まだ貸本漫画家だった頃の水木しげると結婚し、貧困生活を共にし、夫を支え続けたという良妻賢母ぶりが注目を集めた。
水木しげるは自伝『
ねぼけ人生』の中のあとがきで、「自分の貧乏生活をふりかえってみたところで、少しも面白くない」「いや、この貧乏ってのが、今は珍しいんですよ。だって、今、貧乏ってのはあまりありませんからねえ」「貧乏ってのがそんなに珍しいのかなあ」と、編集者とやりとしているが、ゲゲゲの女房における結婚観、男女観といったものもまた同様であろう。
読んで、思ったのは、当時の空気であり、著者のような保守的な考えの女性だと実家から出るには結婚して男性に自分の人生を委ねるしか方法がなかったのだなということ。
一人の男性の双肩に自分の人生がどうなるかのほとんど全てが懸かっているのだから、大変な博打だが、だからこその波瀾万丈のドラマになっている。
本当は貧乏で生活が苦しいのにそれを隠したまま見合いをした水木しげるは相当にひどいと思うのだが、著者が根に持っていないのは、後で水木が成功したからというのではなく、自身の直感と実感による水木への好意と、見合い相手の査定に厳しかった尊敬する父親が認めた男だったこともあるのだろう。
「人生は終わりよければすべてよし」という著者の言葉も、最終的に水木しげるが成功して大金持ちになったからというわけではなく、貧困生活を支えた自身の健気さが際立つことへの照れもあるのだろうし、また、本書の温もりあるサクセスストーリーの裏には著者のような幸福な家庭に恵まれなかった多くの女性達の涙が流れているし、水木しげるのようになれず売れないままペンを折ることになった多くの作家達の血が流れているという残酷な現実があり、水木の横で関わってきた人たちへの幸せを願う優しい眼差しを感じさせた。そういう人柄の良さと厳しい人生を送った経験の凄みを本書からは感じることができた。
そして、結婚して妻でいることってすごい才能と努力がいるものなのだな、と。